石岡の歴史・民話(いしおかのれきし・みんわ)

石岡(いしおか)には3万年前(さんまんねんまえ)の
旧石器時代(きゅうせっきじだい)から人が住んでいた!

旧石器時代(きゅうせっきじだい)
半田原遺跡のナイフ形石器 半田原遺跡(はんだはらいせき)のナイフ形石器(ないふがたせっき)

名前(なまえ)はナイフですが,槍(やり)の先(さき)として使っていました。
写真は,市内に残っている道具(どうぐ)のなかでは最も古いもの。
半田原遺跡では,狩り(かり)をするための道具を作っていた石器製作跡(せっきせいさくあと)が残っています。
縄文時代(じょうもんじだい)
 三村地蔵久保貝塚 三村地蔵久保貝塚(みむらじぞうくぼかいづか)

ハマグリ・カキ・ハイガイなど2,3種類(しゅるい)の貝がらや、シカ・イノシシ・タヌキ・イヌなどのケモノの骨(ほね)などが見つかっています。
貝がらの半分以上(はんぶんいじょう)がハマグリです。ハマグリは海にいる貝なので,三村のあたりまで海だったと考えられます。
古墳時代(こふんじだい)
丸山古墳の勾玉  丸山古墳(まるやまこふん)(4世紀後半)

全長(ぜんちょう)55メートルの全国でもめずしい前も後ろも四角い形の前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)。
このなかには,鉄(てつ)の剣(けん)や槍(やり)などの武器(ぶき)や銅鏡(どうきょう)や勾玉(まがたま)などの祭礼(さいれい)のときに使う道具(どうぐ)などが豊富(ほうふ)にありました。
発掘(はっくつ)されたこれらのものから,大和王権(やまとおうけん)とかかわりがあったと言われています。
 舟塚山古墳(空撮)  舟塚山古墳(ふなつかやまこふん)(5世紀中ごろ)

全長(ぜんちょう)186メートルの前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)。
前方(ぜんぽう)は幅(はば)99メートル・高さ(たかさ)10メートル。
後円(こうえん)は直径(ちょっけい)90メートル・高さ(たかさ)11メートル。
これは関東地方(かんとうちほう)で2番目(にばんめ)の大きさ(おおきさ)です。
このような巨大(きょだい)な古墳(こふん)に葬(ほうむ)られているのは,この地域(ちいき)を治(おさ)めていた有力者(ゆうりょくしゃ)だと考(かんが)えられます。

古代(こだい)の石岡は,常陸国(ひたちのくに)の中心
―屋根瓦(やねがわら)でつながる石岡地区と八郷地区―

平安時代(へいあんじだい)
常陸国国府跡 常陸国府跡(ひたちこくふあと)

石岡小学校の校庭(こうてい)の地下から,常陸国府跡が発見(はっけん)されました。
常陸国国府跡とは,常陸国(ひたちのくに・今の茨城県)の役所(やくしょ)のことです。
今から約1300年前,7世紀末頃から11世紀頃まであり,戸籍(こせき)や税(ぜい)の管理(かんり)などをしていました。
国府跡(こくふあと)の周辺(しゅうへん)には,役所に勤務(きんむ)する役人(やくにん)の宿舎(しゅくしゃ)や民家(みんか)などがあり,石岡は常陸国の中心(ちゅうしん)だったといわれています。
 国分尼寺跡(キッズれきし) 常陸国分寺・尼寺(ひたちこくぶんじ・にじ)

8世紀(はちせいき)のはじめ,全国(ぜんこく)で伝染病(でんせんびょう)が流行(りゅうこう)し,当時(とうじ)その世を治めていた藤原氏(ふじわらし)といった有力者(ゆうりょくしゃ)たちが病気で死んでしまいました。
同時に,いろいろなところで藤原氏に対する反乱(はんらん)が起こっていました。
そのため741年に聖武天皇(しょうむてんのう)が国家(こっか)の安泰(あんたい)を願い,全国に国分寺(こくぶんじ)を建てるように命令し,常陸国の中心だった石岡に常陸国分寺(ひたちこくぶんじ)と尼寺(にじ)が建てられました。
 瓦塚窯跡(キッズれきし) 瓦塚窯跡(かわらづかかまあと)

常陸国分寺(ひたちのくにこくぶんじ)や尼寺(にじ)の屋根瓦(やねがわら)を焼いていた,瓦会地区(かわらえちく)にある窯跡(かまあと)です。
今から40年以上前の昭和43年に瓦会地区の山林(さんりん)を開墾(かいこん)しているときに瓦を焼いていた窯(かま)の跡(あと)を発見(はっけん)しました。
この窯は瓦(かわら)が置けるように粘土質(ねんどしつ)の地盤(ちばん)を階段状(かいだんじょう)にくり抜き,最上部(さいじょうぶ)に煙(けむり)を出すための穴があります。
現在(げんざい),20を超える窯跡が残っていて、保存状態(ほぞんじょうたい)は良好(りょうこう)です。

 

中世(ちゅうせい)の石岡にいた役人(やくにん)・武将(ぶしょう)たち

鎌倉時代(かまくらじだい)~室町時代(むろまちじだい)
税所文書(キッズれきし) 税所文書(さいしょもんじょ)

鎌倉(かまくら)~室町(むろまち)時代の石岡を治(おさ)めていた税所氏(さいしょし)という役人(やくにん)がいました。
税所氏(さいしょし)が残した文書(もんじょ)は「税所文書」と呼ばれ,中世(ちゅうせい)の石岡の様子が分かるとても貴重(きちょう)な資料(しりょう)です。
税所氏は,鎌倉幕府(かまくらばくふ)を倒(たお)そうとした新田義貞(にったよしさだ)に味方(みかた)して鎌倉に攻め込みました。そのときに「よく鎌倉にいっしょに攻め入ってくれた」と新田義貞から渡された「着到状(ちゃくとうじょう・証明書のこと)などが税所文書のなかにあります。
このほか税所氏が所有(しょゆう)していた「税所文書」には源頼朝(みなもとのよりとも)や北条時宗(ほうじょうときむね)から渡された文書などが残されています。
太田資正(キッズれきし)

太田資正(おおたすけまさ)と片野城(かたのじょう)

太田資正は岩槻城(いわつきじょう・さいたま市)の武将(ぶしょう)です。
北条氏(ほうじょうし)や上杉氏(うえすぎし)といった有力(ゆうりょく)な戦国武将(せんごくぶしょう)とも戦ったとても優秀(ゆうしゅうな)の武将でした。
しかし,北条氏と戦っているときに息子(むずこ)の裏切り(うらぎり)にあり,城を追われてしまいました。その後,太田資正は根小屋(ねごや)にあった片野城に入り佐竹氏(さたけし)の部下(ぶか)になりました。佐竹氏のもとでは小田氏(おだし)を小田城(おだじょう・つくば市)から追い出すなどの活躍(かつやく)をしました。
太田資正は片野城で亡くなったため,今でも根小屋にお墓(はか)が残されています。

 

脈々(みゃくみゃく)と続いてきたもの、伝統(でんとう)のはじまり

江戸時代(えどじだい)
酒づくり(キッズれきし) 石岡地区(いしおかちく)の酒造り(さけづくり)

石岡地区の酒造業(しゅぞうぎょう)のはじまりは,江戸時代の元禄期以前(げんろくきいぜん)といわれています。
これは松尾芭蕉(まつおばしょう)が奥(おく)の細道(ほそみち)の旅(たび)にでたころです。
明治(めいじ)の末(1900年はじめ)には,県内最大(けんないさいだい)の酒造地(しゅぞうち)になりました。石岡は昔からお酒をつくるのに必要な水と米が豊富(ほうふ)なため,酒造りが活発(かっぱつ)です。
茅葺き民家(キッズれきし) 八郷地区(やさとちく)の茅葺き民家(かやぶきみんか)

八郷地区には,およそ70棟(とう)の茅葺き屋根(かやぶきやね)が点在(てんざい)しています。
そのうち国指定文化財(くにしていぶんかざい)になっているのは2棟。
一番古い茅葺きは江戸時代の建築(けんちく)といわれています。
天候(てんこう)が良く農作物(のうさくもつ)が豊富(ほうふ)にとれる豊かな土地柄(とちがら)だったため立派(りっぱ)な茅葺屋根ができたといわれてます。
葺(ふ)き替(か)えた茅(かや)は,畑(はたけ)の肥料(ひりょう)などにして再利用(さいりよう)しています。

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  • 【更新日】2013年9月22日
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