1月16日(金)
桶屋から缶づくりまで
昭和の名監督、今井正の映画「米」は、日本初の総天然色シネマで霞ヶ浦の農漁村がその舞台でした。昭和30年ごろの美しい湖面を背景に、当時の次男三男が職業を求め、淡い恋心を抱く様子などが描かれた、感動の傑作です。
スクリーンには、澄みきった霞ヶ浦と大勢の若者、そして石岡の地酒が登場します。茶碗に注ぐビンのラベルから清酒「富士泉」の名が読み取れます。
明治期に誕生した一升ビンは、大正後期になると大量生産が可能になり、液体保存の容器として国内で定着します。
従来の木桶や陶器の大徳利は、その座を明け渡すことになります。
とはいえ、昭和初期の石岡には20社を超える清酒と醤油の醸造元があり、そこへ出入りする16軒の桶屋があったそうです。
桶や樽は、江戸時代の物流に大きな変革をもたらしました。円筒状に並べた板を竹のタガで締めた桶や樽は、カメやツボよりも軽く割れません。そのため、酒や醤油、味噌などの容器となり、貯蔵・運搬に用いられました。
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「中へ入る際には、ジャンパーとキャップ、ヘッドホンを付けてください」柏原工業団地にある日本ナショナル製罐(せいかん)株式会社を訪問して、工場内を見学するときにそう言われました。ここはビールなどのアルミ飲料缶を製造する会社です。
飲料容器の生産現場だけに、衛生・安全管理は万全です。中村昌弘社長の提唱する6S活動(作法 ・しつけ・整理・整頓・清掃・清潔)が徹底され、工場内はどこを見てもピカピカ状態です。
また整理整頓され行き届いた製造環境は、生産効率もアップさせ、1 分間に2000 缶という日本最速の生産ラインを実現させています。
工程の中で次第に形を整えるアルミ缶は、最後に仕上げ処理を経て、パレットに積み上げられて梱包されます。1 つのパレットに6000 個はあるでしょうか、倉庫内にそれが何段にも積み上げられ見上げるような高さになっています。
▲工場見学を終え、中村社長(前列左)と記念撮影
同社は、柏原工業団地のスタートした昭和49年に操業を開始し、業績を伸ばしてきました。隣接の敷地には、東洋製罐と日本クロージャーがあり、いずれも飲料容器関係の工場です。
昭和初期の桶屋さんから近代工場まで、時代とともに飲料容器は形を変えてきました。
「創業当時の缶は、金具で上蓋に穴を2 カ所開けるタイプですか」と訊ねると役員さんの一人が「それは古い人しか知らないですよ。当時はプルタブ式で、外れるタイプでした」と答え、私が頭を掻くと室内は笑いに包ま
れました。
文・写真 今泉 文彦