新・市長日記 平和への思い―戦後70年の節目に―(広報いしおか8月1日号)

7月9日(木)

平和への思い―戦後70年の節目に―

梅雨空の肌寒い朝、家のまわりには霧が立ち込めていました。
今朝は、午前6時過ぎに家を出て、東京に向かいました。東京出張で最初に行くのは九段下の靖国神社で、ここの駐車場で石岡地区遺族会の皆さんをお出迎えします。
遺族会のバスは全部で4台、それぞれの戦没者を慰霊するために参加した皆さんが、次々に降りてきます。

「おはようございます」と声を掛けると、元気な声が笑顔と共に返ってきます。ほとんどが顔見知りの方々です。
「もう70年も経つものですから、参加者が少しずつ減っています。高齢化も進んでいますしネ」

会長の小松修さんが境内を見渡しながらそう言いました。
小松さん自身、2 歳の時に父親が戦死し、すでに72歳を超えています。
大きな鳥居をくぐり、英霊との再会を楽しみにこの地を訪れた遺族会の皆さんは、しっかりとした足どりで境内を進んでいきます。
最愛の肉親を戦争によって失った悲しみを越えて、激動の時代を懸命に生き抜いた方々の心は、平和への思いでいっぱいです。

平和への思い
▲遺族会の皆さんと拝殿をのぞむ門の前にて

今年は戦後70年を迎えます。焼野原となった戦後の日本の復興を支えてきた人々は、高齢化し、当時の話を直(じか)に聞く機会は、徐々に減りつつあります。
市出身の戦没者の多くは、徴兵によって戦場に送られた若者でした。フィリピン、ビルマ、ニューギニア等の南方での戦死者が多かったといいます。
「戦没者名簿」には没年齢は記されていませんが、多くが10代後半から30代前半の青年層であったことは想像に難くありません。

ふるさとから遠く離れた南の島から無言で帰還した、戦没者たちは「英霊の凱旋」として迎えられました。「凱旋」した彼らを町中で迎え、住民総出の葬儀が行われました。
戦没者の町葬・村葬が終了したのちは「英霊」の遺骨を実家まで送る長い葬列が続くのが常であったそうです。

彼らを祀る忠霊塔が、市内各地に建てられています。石岡市役所、国分寺境内、八郷地区各地にある忠霊塔は、役場吏員、学校職員、村有志、在郷軍人会、青年団などの勤労奉仕によって建てられたといいます。
戦後70年。直にその当時を生きた人から体験談を聞くことが、難しい時代になってきました。若者が戦争によって命を失う悲惨さ、残された家族の哀しみと苦労。食べることすらままならなかった貧しい時代は、この石岡市にも確実にありました。

今年、合併10周年を迎えることを記念して、中学生とともに新たな「市民憲章」づくりに取り組んできました。そんな子どもたちが思う「平和」とはどのようなものなのでしょうか。
改めて「平和」というものについて、戦争の悲惨さ、命の尊さについて考えてもらうおうと、今年度から平和大使派遣事業を開始します。
これは、市内6校の中学校から平和に関する意識を高く持つ生徒を1名ずつ選出し、広島市に派遣するもので、平和記念資料館を見学、8月6日の式典や「とうろう流し」に参加します。
中学生たちには、原爆の落とされた8月6日、実際にその場に立ち、広島の人々の「平和」への思いを感じとる体験をしてもらいたいと思っています。

東京での公務を終え、石岡へと戻る車中で高齢になられた遺族の皆さんの手を合わせられる姿が思い返されました。また、これからの時代を担う市内の子どもたちの姿も同時に。
車窓に目を向けると、近代的な高層ビルが並びます。

時代は移り変わっても、大切なものは引き継いでいかなければなりません。遺族会の皆さんと平和大使になった中学生たちの間に横たわる、70年という歳月。
平和という大切なものへの思いを新たに帰途につきました。

文・写真 今泉 文彦

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  • 【更新日】2015年8月18日
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