大正4年生まれの母は、98歳とは思えぬほど元気です。
公民館でカルタを楽しんだり、電子ブックで読書をしたりとマイペースの日々を過ごしています。
そんな母が、ふと子どものころを思い出して言いました。
「小学校1年の時、関東大震災があって私は庭に居たんだけど、
立っていられないほど揺れたのを覚えているわ」
強烈な経験だけに、90 年経っても記憶は鮮明でした。
「その夜、南の空が真っ赤に燃えて、東京が大火事だと大人に教えられたの」
大震災を経た東京の復興は、まず道路が広げられました。沿道の商店の多くは、2、3階建ての防火
性の高い西洋風の店舗兼住宅を建てるようになります。
建物正面を看板のように装飾するので、後に「看板建築」と呼ばれ昭和ロマンを象徴する建築様式の一つです。
「小学校6年生の時、南の夜空がまた真っ赤になって、不安な気持ちで眺めていたの」
それは、昭和4年3 月14日の石岡の大火でした。
目抜き通りの中町から金丸町、守木町、守横町、富田町、貝地の606戸、1700棟が全焼した
悪夢のような出来事です。
やがて復興が始まると中町通りは拡幅され、東京で流行っていた看板建築の街並みが出現しまし
た。歩道にはガス灯風の街路灯とプラタナスが並ぶ、他の町にない洒落た通りでした。
昭和60年ごろ、石岡市史を編さんした筑波大の岩崎宏之教授がこう言いました。
「アーケードの上に見える商店の看板建築は、石岡の特徴的な財産だと思います。水戸や土浦にもこれだけ
のものはありません」
あたりまえの存在を貴重な物と指摘する慧眼はすばらしく、その言葉は、深く私の心に突き刺さっていました。
「NHK の小さな旅で履物店の十七屋さんが出たね。あれを見て、子供のころ美野里の田舎から石岡に来た時を
思い出したわ。石岡は大都会で、賑やかだったのよ」
そう振り返る母の口から、思い出話が次々に溢れ出しました。
昭和10年代の写真を見ると、看板建築の商店がずらりと立ち並び、壮観な商店街だったことに気づきます。
「最近は、千葉や埼玉などの県外から、カメラを持って建物を写している人が多くなったようね」
母は、街に人足が増えたことを喜んでいました。
文・写真 今泉 文彦
新・市長日記 看板建築の街並み (広報いしおか3月1日号)
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- 【更新日】2014年3月11日
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