石岡の陣屋と「陣屋門」

松平家と府中の町

画像:石岡小学校の校門だった石岡の陣屋門今からおよそ300年前の元禄13年(1700)9月、江戸小石川の水戸徳川家上屋敷を訪れた将軍・徳川綱吉は、時の水戸藩主・徳川綱條(つなえだ)の叔父にあたる松平頼隆(図1)に2万石を与え、大名に取り立てました。このとき頼隆に与えられた所領は、陸奥国岩瀬郡長沼18か村と、常陸国の行方郡9か村、茨城郡3か村、そして今の石岡地域を含む新治郡府中7か村。これにより、現在の中心市街地を含む石岡地域(以下「府中」)は、府中松平藩(以下「府中藩」)の支配を受けることになりました。なお、府中藩支配下の府中は、制度上「平村」と呼ばれましたが、一般には幕末まで「府中」の名が親しまれていたようです。
特設ページ陣屋門家系図
近世の府中は、慶長期(1600年前後)には都市形成が進み、寛永期(1640年頃)にはすでに水戸街道に沿う宿駅として、大きな発展を遂げていたといいます。町の中心部は、街道をはさんで間口六間あるいは三間の屋敷が整然と区画され、常設の店舗が街並みを形作っていました。

特設ページ陣屋門 播磨坂
▲現在の播磨坂。桜の名所として名高い。

しかし、この府中の町に、松平家の居城や屋敷が作られることはありませんでした。府中藩は、水戸藩の御連枝(分家)として定府(参勤交代を行わずに江戸に定住すること。家臣も大半が江戸詰)を義務づけられ、江戸に常住していました。なお、府中藩の上屋敷は、今でいう文京区小石川・丸の内線茗荷谷駅近く、播磨坂の一帯にあり、この坂の名前も、府中藩主の多くが「播磨守」に任ぜられたことから付いた名前です。

一方、府中には、現在の市民会館や石岡小学校の敷地一帯に「陣屋」と呼ばれる役所が置かれ、郡奉行以下、手代、足軽、中間から門番など総勢20余名が民政を担っていました。陣屋の係わりを示す資料は乏しいものの、府中の町は、松平家の入封以降、本格的な発展を見せます。町を通過する水戸街道の交通量が増大し、特に穀物や肥料の集散地として商業活動が活発化します。醸造業の発展に伴って職人層や奉公人も多数流入し、府中はさまざまな階層の人々が集住する都市型の町になりました。また、膨大な年貢米を江戸へ送るため、霞ヶ浦の水運も発展しました。人口は幕末期には約6,000人に達し、水戸には及ばないものの、土浦の町方人口を優に凌いでいました。 

陣屋と「石岡の陣屋門」

画像:府中松平家陣屋略図(山口貞次郎作図)(小)県指定文化財「石岡の陣屋門」(以下、「陣屋門」)は、陣屋にいくつかあった門のうち、表門に当たります。現在に残るのは、文政11年(1828)に建築されたもので、火災にあった江戸屋敷を再建した際、その余った材料を使って建築したと言われています。

元来は神社通り(土橋通り)の突き当りに建ち、簡素でありながら堂々としたその構えで町の人々に幕藩体制の力を誇示していました。

←図2の右下の土橋通りの突き当りに位置するのが陣屋門

陣屋門は「高麗門」という様式で建てられています。
高麗門は図2にあるように両の鏡柱(かがみばしら)からのびた控え柱(ひかえばしら)との間にそれぞれ小さな切妻屋根(きりづまやね)をのせているのが特徴です。

豊臣秀吉が朝鮮半島に兵を送った文禄・慶長の役の頃に現れた様式であることから、豊臣方が戦地の城郭に用いた形が普及したとも言われます。江戸時代には城門や寺院に多く使われ、皇居外苑(旧江戸城)にも、いくつかの高麗門が現存しています(外桜田門や大手門)。また、陣屋門に程近い東耀寺にも、この形式の門が残っています。

画像:陣屋門各部の名称(小) 陣屋門には,主にケヤキが使われています。一般的に冠木(かぶき)の上は土壁で閉ざされていますが、石岡の陣屋門には格子が組み入れられているのが特徴的です。

画像:図3 陣屋門各部の名称(小)  画像:府中町絵図(小)

陣屋門の屋根には鯱(しゃちほこ)が乗っていますが、高麗門に鯱があるのは極めて稀です。さらに、陣屋門に見られるような鯱、鬼瓦、鳥衾(とりぶすま)の取り合わせは全国的にもほとんど例がありません(図4参照)。
棟木に、鯱と屋根とを繋ぐ心棒の痕跡がないことから、建設当時には鯱がなかった可能性もありますが、建設間もない天保年間(1830-1844)に描かれた「府中町絵図」(図5)の中央に位置する陣屋門の上部に鯱らしきものが描かれており、真相は不明です。

藩政の終わり

明治2年、府中藩は諸藩と同様、版籍奉還(土地(版)と人民(籍)の支配権を、諸藩が朝廷(明治新政府)へ還したこと)を行い、藩名も石岡藩と改めました。これは、府中藩という名称が全国に4藩(常陸、駿河、長門、対馬)を数えたため、新政府から改称を命じられたためです。

これに続き、当時の府中藩主・松平頼策(よりふみ)は新政府から藩知事に任命され、藩士と共に在所である府中へ引き揚げました。残されている証言によると「殿様(頼策)は今の小学校の所にあった御殿にお住まいになりました。1年ぐらいはおいでだったでしょう(手塚邦彦「ご一新のころ」所収)」とのことなので、頼策は大名駕籠で陣屋門をくぐり、陣屋に入ったのかも知れません。

頼策は、一定期間にわたって府中に住んだ初めての松平家当主と言えますが、明治4年7月に行われた廃藩置県(藩を廃止し、府と県を置くことで中央集権が強化された政治改革)によって石岡藩知事を免じられ、併せて、旧藩主はすべて東京への移住が命じられたため、頼策の府中滞在は終わりを告げました。

府中を去るその日、頼策が陣屋門から出立したとするなら、門をくぐりながら,時代に翻弄される我が身を顧みて、頼策はどんなことを思ったでしょう。

明治期の陣屋門

廃藩置県で石岡県が成立すると、陣屋は機能を失い、その後は敷地が元藩士に分け与えられるなどして、急速に姿を消していきました。しかし、威風凛々とした陣屋門だけは壊されることなく、明治8年を迎えます。この年、市内の寺院に分散して開校していた石岡学校(現石岡小学校)が陣屋跡地へ新校舎を建てることになり、陣屋門は、そのまま校門として再利用されることになりました

その後は、明治45年から昭和12年まで小学校を仮用して開校していた石岡実科高等女学校(現石岡第二高等学校)の生徒たちを含め、陣屋門は90年余にわたって石岡の子どもたちを見守り続けました。

陣屋門の移築,そして再移築

昭和41年、石岡市民会館の建設に伴って、陣屋門を移築する計画が持ち上がりました。新しい市民会館と古色蒼然とした陣屋門の姿はひどく不釣り合いと思われましたし、陣屋門が建っている位置は、多くなりはじめた自動車にとって障害になりつつあったのです。

このとき、市民の間からは移築に反対する運動が起こり、その会の名簿には約8,000人(当時の人口は約37,000人)の市民が名を連ねましたが、高度経済成長期にあって新しい風が町へ吹き込むのを望む声も多く、昭和44年3月、陣屋門は市民会館裏側に当たる石岡小学校敷地内へと移されました。いたずら防止に周囲には柵が巡らされましたが、見方によっては、陣屋門が柵の中へ押し込められたようにも見えたかも知れません。

画像:昭和30年ごろの陣屋門

画像:昭和43年ごろの陣屋門

それから約45年を経た平成25年、大規模改修のために陣屋門が解体されたのを期に、市民から多くの要望書が市長に出されました。内容はいずれも、陣屋門を元の位置に戻すことを求めるものでした。多くの市民は、移築から45年を経てもなお、陣屋門に思いを残していたのです。

平成26年初頭、市は陣屋門を元の位置、もしくは極めて近い位置に再移築する考えを固め、交通状況などを考慮して、元の位置より数メートル南、市民会館駐車場内に移すことにしました。

そして迎えた5月。いよいよ再移築に向けて事業が始まりました。

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  • 【更新日】2014年7月23日
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