10月6日(月)午後,移築改修中の陣屋門で,四方を覆っていた仮囲いと足場が外され,門の全貌が現れました。門両側の袖塀には,これから下見板がはまります。
▲仮囲いと足場がなくなった移築現場
今回の改修作業には,以前の陣屋門と大きく異なることになる点が2つあります。
1つは,門の両側にあった潜り戸。昭和44年に陣屋門が市民会館裏に移築される前の写真をみると,潜り戸は扉がない状態になっています。移築された後,潜り戸には扉がつけられましたが,今回の改修で,その扉の藁座(軸吊り扉の回転軸を受ける部品)は接着剤で接合されていたことが明らかになりました。しかも,潜り戸周辺にある創建時の部位には,藁座や肘壺を取り付けた痕跡がなく,考証の結果,創建時の陣屋門脇塀には潜り戸はなかったとの結論に至りました。そのため,今回の改修では埋め立て張りの板壁に整備しています。
▲古写真の潜り戸に扉はないが,市民会館裏へ移築後,扉が現れる |
ところで,この「潜り戸」に関係して,1つの謎?があります。
昭和30年5月の石岡史蹟保存会会報には,井坂央という人物の談話(原典は「旧藩回想録(山口貞次郎著)」との記述あり)として「表門は平生は締めてあって側のくぐり門から出入したもので、そこに門番が門番の住居屋より出張交替したものです。表門を入るとすぐ通用門がありました。不浄のものもそこから出る。真木や荷物を運搬する馬もそこから出入したものです」という文章が載っています。陣屋門は,この「表門」にあたります。
表門と通用門の関係は,山口貞次郎氏の描いた「陣屋略図」と符号しますが,表門の「側のくぐり門」の話は,略図から読み取ることはできません。とは言え,先ほどの結論から言って,「くぐり門」が陣屋門の潜り戸であるはずはありません。
「くぐり門」は,私たちにとって大変不思議な存在ですが,実際に陣屋を知っている井坂央氏,山口貞次郎氏には,何の不自然もない話だったはず。皆さんは,「くぐり門」の謎をどのように推理されるでしょうか。
▲府中松平家陣屋略図(山口貞次郎氏作図)部分
大きく異なる点の2つ目は,袖塀の下部にあった石垣です。今に残る陣屋門の写真(最古と思われるものは昭和10年頃)にはすべて石垣が写っていますが,考証によれば,創建時には石垣はなかったと考えられることから,今回の改修では,基壇まで簓子(ささらこ)下見板張りという板張りで整備することにしています。
▲昭和10年ごろの陣屋門 | ▲簓子(ささらこ)下見板張り |