「棟札(むなふだ・むねふだ)」というものをご存知でしょうか。
一般に,建築年月日や建築主,大工の棟梁の名前など,建築にまつわる記録が書かれた板で,お寺や神社のほか,一般の住宅にも残されていることがあります。多くは棟木に打ち付けることからこの名が付いたもので,完成後は目にすることができません。
今回の解体修理で棟札は発見されませんでしたが,棟札に代わるものとして,門の部材に直接書かれた「墨書」が見つかりました。その部材は,両の鏡柱の内側にある2つの「方立(ほうだて)」という部分で,鏡柱に密着する面に書かれていたため,解体修理を行わない限りは絶対に見ることができない場所です。
▲着色部分が墨書のあった場所 |
2つの方立に書かれていた内容はほぼ同一で,次のようなものでした。
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文政十一年戌子正月廿五日建立(片側は「建之」と記載)
御普請方 矢口権六
大工棟梁 府中本町 櫻井杢右衛門
同 守木町 長谷川吉兵衛(※注:「吉」の字は,「士」の部分が「土」)
□□ 木挽棟梁 惣□□□(※注:□は判読不能)
香丸町 石工 半右エ門
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建立年月日として書かれていた文政11年(1828)1月25日は,新暦の3月10日。
「御普請方」と書かれた「矢口権六」という名前は,今に残る府中松平藩関係の文書「分限帳(明治己巳仲冬御変革前(1868年11月か) 石岡会計局)」や,明治2年の版籍奉還後に松平頼策(府中松平藩主/石岡藩知事)が鹿の子の土地を藩士に与えた「割当図」でも見ることができます。
「分限帳」は,矢口権六の俸禄を「金五両弐人扶持」と記載していますので,矢口家はあまり高給取りではなかったようです。ただ,これらの資料の成立が陣屋門建立から約40年後であることを考えれば,「分限帳」や「割当図」の矢口権六は,「御普請方」を務めた矢口権六の子ども,または孫ではないかと思われます。
江戸時代,武士の名前は多く「姓」-「通称や官名など」-「諱(いみな)」で構成されていました。「矢口権六」を例にとれば,矢口は姓,権六は通称です。諱は分かりませんが,当時,日常では諱を用いることはなく,名を継がせる際は「通称」が一般的でした。
「大工棟梁」として名前が記されている「櫻井杢右衛門」「長谷川吉兵衛」,そして「石工」の「半右エ門」については,残念ながら資料が残っていません。ただ,櫻井杢右衛門の「櫻井」という名からは,江戸前期から県内を中心に活躍した宮大工・櫻井瀬兵衛の流れを組んだ職人だったのではないか,と想像することもできそうです。