山縣大弐の墓

瀧川氏の墓

左の写真は石岡市根小屋の泰寧寺にある山縣大弐(やまがた だいに)の墓です。
山縣は現在の山梨県に生まれ,27歳の時に江戸に出て兵学を講じました。さらに数年後,「柳子新論」を書き,尊王論を説きました。しかし,これらのことが幕府から咎められ,明和4年(1767)に処刑されてしまいます。
また,三千人に及ぶと言われた山縣の門下生の中に,根小屋出身の薗部文之進という人物がいました。文之進は処刑後,根小屋の自宅に大弐の首を埋葬し,その後,明治になってから泰寧寺境内の現在の場所に改装されました。
さらに,泰寧寺境内には片野城の城主・瀧川氏の墓もあります。瀧川氏は元々は伊勢の武将で木造(こづくり)を名乗っていましたが,織田信長の家来の瀧川一益から姓をもらい瀧川姓となります。常陸国を統一した佐竹氏が秋田に転封になった後を受けて,慶長9年(1603)に片野城に入り,新治郡内2万石の大名となりました。